こんにちは。ぶ~ちゃんです。
日光街道歩き旅6日目2回目です。
前回は「小山宿」を散策して終わりました。
6日目の2回目となる今回は「新田宿」への道中を経て「新田宿」「小金井宿」を散策します。
小山宿を出発する頃には、今朝からパラついていた雨もすっかり止み、雨の気配が消えて穏やかな空気が流れていました。
今回の道中には日光街道で唯一国指定史跡となっている「小金井一里塚」がありました。
国指定史跡として残るものはとても貴重です。
それでは、6日目2回目の日光街道歩き旅の続きです。
日光街道の旅 6日目-2
「新田宿」への道中
10:30
小山宿を出発する頃には、雨が降る気配はすっかり消え去り、ほっと一安心です。これからの道中、天候を気にせず歩みを進められそうです。
日光街道の歴史には関係ありませんが、小山宿を出てすぐ右手に爆弾ハンバーグ「フライングガーデン」の建物がありあました。
少し歩いた先の右手に見えたのは、爆弾ハンバーグで有名な「フライングガーデン」の建物。最初は店舗かと思いましたが、妻がふと違和感に気付き、調べてみると、ここがなんと本社でした。
私たちの住む近くには店舗がなく、しばらく足が遠のいていましたが、リーズナブルでおいしいハンバーグの味は今でも記憶に残っています。こんな場所にひっそりと本社があるなんて、まさに街道歩きならではの発見ですね。
しばらく歩いて「JR両毛線」の踏切を渡ります。
踏切の名前は「第一奥州街道踏切」。ここは「日光街道」ではないのですね。
日枝神社
踏切から約1km歩くと、「日枝神社」の社標が目に入ります。
ここの参道に大きなケヤキが3本あり、それぞれ樹齢400年以上、樹高は30数メートルにも達しています。日枝神社は小山城の北の守りとして重要な役割を果たしてきたそうです。
喜沢追分
喜沢分岐点の交差点です。ここが「喜沢追分」で、壬生通りとの分岐点となっています。昔はこの場所に立場茶屋があったそうです。
交差点の手前には「馬力神」の石碑があります。
その名の通り、馬の守護神として特に栃木県内に多く見られる神様です。
交差点を渡った先には「男體山」の石碑があり、その下方には「右奥州、左日光」という文字が刻まれています。この石碑の裏側には、供養塔や馬頭観音、日支出征馬碑など、さまざまな石碑が立ち並んでおり、地域の歴史や信仰の深さを物語っています。
芭蕉一行は壬生道を通り、壬生宿と鹿沼宿に滞在していました。
ずっと同じ道を歩くと思っていたのですが、ここで一旦お別れなんですね。その少し先に立っていた道標には「左 日光街道 右 奥州街道」と書かれています。日光街道と奥州街道はまだ同じ道を辿っているはずと思っていましたが、芭蕉一行もそうであったように、日光への道は「壬生街道」を利用するのが一般的な「日光街道」と呼ばれるルートだったのかもしれませんね。
交差点を少し進んだ後、右側の小路に入ります。こちらが旧日光街道です。交通量の多い国道沿いよりも、静かな細い道を進んでいく方がワクワクします。
江戸日本橋から二十一里目「喜沢一里塚」
11:00
小路に入って約800メートル歩くと、左手に林が見えてきます。
そこにはこんもりとした塚状の小山があります。特に案内説明板は設置されていませんが、これが日本橋から21里目の一里塚であることは間違いないでしょう。
そのまままっすぐ進むと、JRの線路沿いに出ます。
線路に沿って進みます。下を走っているのは宇都宮線、高架上を走っているのは東北新幹線です。この光景に、なぜか妻は興奮気味。新幹線の姿を動画に収めようとしていましたが、高架上を走っているため、走行音だけが響き渡り、姿を捉えることはできず残念がっていました。
線路沿いを800メートルほど歩いたところで、斜め左の道に入ります。
この道を進むと、再び新道と合流します。
新道に戻ったところから「新田宿」に入ります。また交通量が一気に増えて騒々しくなります。
日本橋から13番目の宿場町「新田宿」
新田宿は国道4号沿いにあります。宿場の遺構はほとんど残っておらず特徴的なことはあまりなかった印象です。
新田宿
もともと「芋柄新田」や「大町新田」と呼ばれていたんだけど、宿駅として整備が進むにつれて「新田宿」という名前が定着したんだブ!ここには本陣が1軒、脇本陣が1軒、旅籠が11軒あって、日光街道の宿場町の中でも最も小さな宿場だったんだブよ。昔は左手に日光山や赤城山、大平山などの名山が見渡せたそうだけど、今では建物や木々に遮られて、その眺めを楽しむことができなくなってしまったんだブね。
新田宿本陣跡
風情ある四脚門が残っており、ここが本陣跡と伝えられています。この門周辺が当時の新田宿の中心部だったようですね。往時の面影を今に伝える唯一の建築物でした。
街道沿いの民家には、かつての屋号が掲げられています。
幕府代官陣屋跡
少し進んだところに「幕府代官陣屋跡」「吉田神社跡碑」があります。
羽川薬師堂
看板のある路地を少し入ると「薬師堂」が現れます。
橿原神社(かしはらじんじゃ)
街道に戻り、右手に見えてくるのが「橿原神社」です。この神社は古くは「星宮神社」として地域の総鎮守とされ、神武天皇を御祭神として祀っています。
神社参道の両脇は桜の木が植えられていて、春には綺麗な桜が見られそうです。
橿原神社を過ぎ、国道を少し進んで、銅市金属工業の敷地を過ぎたところが新田宿の北端になります。
北端を左折して一本東側の道が旧日光街道になるようですが、通り過ぎてしまいました。
その先、左側にコンビニのある交差点を左折して、一本左側の道を進みます。
しばらく住宅地の中を進みます。街道らしさはほぼ感じないですね。
途中、右折して小金井駅前の観光案内所に立ち寄ります。
駅西口のロータリーには、目を引くモニュメントがありました。
「C57蒸気機関車の動輪」が展示されています。この地が鉄道の発展とともにあったことが碑に刻まれています。
御宿場印「小金井宿」を手に入れた!
西口ロータリーの一角に「下野市観光案内所 オアシスポッポ館」があります。
ここで「小金井宿御宿場印」を手に入れることができます。
場所 :オアシスポッポ館
営業時間:9:00~17:00
休業日 :毎週月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
江戸日本橋から二十二里目「小金井一里塚」
12:30
小金井駅前交差点から300m程進むと、大きな木が視界に入ってきます。
22里目の「小金井一里塚」です。保存状態が良く、日光街道で唯一国指定史跡となっています。
国道に面してる塚が街道東側の塚で、奥にある塚が街道西側の塚となります。
この塚の間を街道が通っていたんですね。
一里塚の隣にはマクドナルドがありました。
当たり前のようにお店に入っていく妻の姿には勇ましさすら感じます。
ちょうどお昼時でもあったので、ここで一息入れることに。ハンバーガーとポテトを片手に窓越しに眺める一里塚はとても贅沢でしたよ。
小金井宿日本橋から13番目の宿場町「小金井宿」
一里塚を過ぎたあたりから「小金井宿」に入ります。
出張陣屋跡
右手に御菓子司橘屋(菅井製菓)があります。
ここには佐倉反の出張陣屋で領主陣屋跡だったそうです。
慈眼寺
そのはす向かいに「慈眼寺」があります。
建久7年(1196年)に創建された真言宗の寺院で、関東の豪族・新田義兼公が一族の祈願所として建立したと伝えられる歴史ある古刹です。
この寺院は、徳川将軍家との縁も深く、徳川家綱の時代には将軍の小休所として利用され、享保13年(1728年)に8代将軍徳川吉宗が日光社参を行った際からは、昼食所として定められるようになりました。境内には「御成御殿」が建てられており、将軍家の滞在に備えた施設が整えられていたことが伺えます。
広々とした境内には、本堂をはじめ、江戸時代に建てられた観音堂や鐘楼が建ち並んでいます。
本尊は十一面観世音菩薩です。灯篭には葵の紋が使われていますね。
金井神社
慈眼寺の隣に位置する「金井神社」です。鳥居をくぐると、拝殿まで朱塗りの灯篭が並び、どこか荘厳な雰囲気が漂います。小金井宿の鎮守として地域の人々に親しまれ、「金井」という社名には「黄金の湧き出る井戸」という意味が込められています。
雨上がりだったためか、妻は大量の蚊に襲われて、かゆみとしばらくの間格闘していました。
小金井宿本陣跡
金井神社の先に小金井宿本陣跡がありあます。
本陣門(四脚門)が残されている。この旧本陣には、明治22年(1889)に国分寺村が発足したとき、村役場が置かれていた。
小金井宿
本陣が1軒、脇本陣が1軒、そして旅籠が43軒もあったんだブ!地名の由来は、近くに「小金井」と呼ばれる湧水の池があり、「池の中から黄金が出てきた」という伝承に基づいているんだブね。
本陣跡のはす向かいには、明治初期に呉服屋だった見世蔵が残っています。
建物が傾いていますね。
蓮行寺
「金井北」の信号を右折し、突き当りに見えるのが「蓮行寺」です。
かつては宇都宮藩主がここで待機し、日光参拝(社参)に向かう将軍を出迎える役割を担っていたとされています。
街道に戻りさらに北へ進むと、右手に「薬師堂」が現れます。この場所が小金井宿の北の出口にあたる地点です。
小金井宿を抜けたところで、今回の日光街道6日目2回目の旅はここまでとします。次回は、「石橋宿」への道中を経て「雀宮宿」まで進みます。どうぞお楽しみに!
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