日光街道歩き旅!5日目③「間々田宿」

日光街道歩き旅

こんにちは。ぶ~ちゃんです。

日光街道歩き旅5日目3回目です。

前回は「野木宿」を散策した後「間々田宿」に向かう道中、小山市に入って終わりました。
今回は「間々田宿」に入り散策します。

間々田宿は、奥州の大名たちが参勤交代の際に利用した場所でもあり、壬生通りを通って日光へ参詣する大名や旗本にとっても欠かせない拠点でした。恩川の乙女河岸は、江戸時代に米の積出しや物資輸送の重要な役割も果たしました。創建から1300年を誇る「間々田八幡宮」は、この地域のシンボルで訪れる人々に歴史を感じさせてくれます。

それでは、引き続き日光街道「間々田宿」までの旅をご紹介していきたいと思います。

日光街道の旅 5日目-3

間々田宿への道中

12:45
小山市に入ります。

道中に見かけた馬頭観世音の台座には、「これより左 あじと とちき さのみち」と刻まれていました。昔の旅人たちにとってこの地を通る際の重要な目印だったのでしょうね。

江戸日本橋から十八里目「乙女一里塚」

小山市に入り、約400メートル進むと鳥居が見えてきます。鳥居の向こうには大きなエノキの大木があり、その根元には石祠が祀られています。
説明板などありませんでしたが、ここが十八里目に位置する「乙女一里塚」です。

乙女一里塚より200m程進むと「若宮八幡宮」の鳥居が見えてきます。鳥居の奥には本堂があり、左手には1709年に鋳造された銅製の大日如来像が立っています。この像は市の指定文化財となっています。この如来像は非常に品格があり、屋外に安置されているため「濡れ仏様」と呼ばれているそうです。

その先道中にあった十九夜塔です。古河から十九夜塔を良く見かけるようになりました。

若宮八幡宮から1.3km程歩いた右手に「佛光寺」が現れます。
徳川二代将軍秀忠から十石の寺領を賜った歴史ある寺院です。参道には文久元年(1861年)に建立された十九夜供養塔が立ち、境内の観音堂には十一面観音像が安置されています。

佛光寺の対面に「乙女八幡宮」があります。
八幡宮は鎌倉時代に創祀されたもので、乙女河岸で活動する商人から崇敬されていたという。
石造り大きな鳥居は小山市指定文化財に登録されています。
体力温存のため、寄り道せずに素通りです。

乙女八幡宮の鳥居から約150メートル進むと、「乙女交差点」があります。ここを左折してしばらく進むと、「恩川」にかかる「乙女大橋」が見えてきます。江戸時代、この大橋の付近には「乙女河岸」があり、河川交通の要衝として、政治、経済、文化の面で非常に重要な役割を果たしていた場所です。

乙女不動尊瓦窯跡

1:30
この辺りから西側に500mほど入っていったところに「乙女かわらの里公園」があります。
この公園ある、乙女不動尊瓦窯跡は、1978年に国の史跡に指定されました。
発掘調査により、4基の窯跡や灰原、粘土採掘抗、工房跡などが見つかり、当時の瓦生産の様子が明らかになっています。また、出土した瓦には、下野薬師寺や下野国分寺跡から出土したものと同じ文様が見られ、これらの寺院との関係が確認されています。

乙女不動尊瓦窯跡の道向かいにあるのが泉龍寺です。「乙女不動尊」の通称で知られています。
朱塗りの鐘楼門が目をひきますね。
お不動様は、25年に一度の御開帳時のみ拝観できるそうです。

少しの寄り道のはずだったのですが、乙女不動尊瓦窯跡乙女不動尊瓦窯跡を見学してしまいました。暑さのせいもあり、体力もむしばまれてきました。

小川家住宅

日光街道に戻ると、黒塀に白壁の土蔵が目に飛び込んできます。これは国の登録有形文化財である「小川家住宅」です。明治末期に建てられた商家で、かつては米や肥料の取引を行っていた場所です。現在は建物が保存・修復され、美術展示室としても利用されており、当時の商家の風格とともに、文化的な価値を感じることができます。

日本橋から11番目の宿場町「間々田宿」

逢の榎

500mほど歩いたところに「逢の榎」があります。
この場所が、日光街道の中間地点に位置するようです。
ようやくここで半分。まだまだ先は長いですね。

ブーちゃん
ブーちゃん

逢いの榎(間の榎)
間々田宿は、江戸と日光のちょうど中間にあった宿場で「間の宿」と呼ばれていたんだブ!宿場の入口にあった大木「間の榎」は、旅人たちの目印だったんだブ。それが「逢の榎」として縁結びの木として有名になったブ!


逢の榎から150m程のところ、間々田歩道橋を越えた左手にさやま酒店が見えてきます。
建物の中は、商家造りの間取りが特徴で、箪笥階段など昔ながらの風情が色濃く残されています。

龍昌寺

その隣には「龍昌寺」の門柱があり、朱色の山門がひときわ目立ちます。この寺院には「寝起き不動尊」が祀られており、33年ごとに御開帳されます。次回の御開帳は2040年に予定されています。また、龍昌寺には徳川家光の遺骸が日光廟へ葬送される途中、一時的に安置所が設けられたという歴史的な背景もあります。

50mほど先に「間々田ひも」があります。
手編みの組紐で、鎌倉時代から続く技術を用いています。金糸や銀糸、草木染の絹糸を使い、手作業で組み上げられ、帯紐やアクセサリーなどに使われています。栃木県無形文化財に指定されています。

その先にある間々田交差点を過ぎた駐車場の敷地に「問屋場跡」の案内板が現れます。

さらに50m程歩いたところには「本陣跡」の案内板があります。
こちらも駐車場の敷地に案内板が立っているのみで、往時の面影はありませんでした。

ブーちゃん
ブーちゃん

間々田宿
間々田宿には、本陣と脇本陣がそれぞれ1軒ずつあって、旅籠は約50軒もあったんだブ!なんと松尾芭蕉も江戸を出発して2日目にここに宿泊した記録が残っているんだブ。ブーは5日目…

国道4号沿いに立つ、間々田宿問屋場跡の説明版。

間々田八幡宮

本陣跡から200メートルほど進むと、間々田八幡宮への参道入口となる交差点に出ます。
道の両脇には常夜灯が並び、その奥には鳥居が建っています。
「間々田八幡宮」はこの鳥居からさらに500メートル先に位置します。体力もだいぶ消耗してきていますが、御宿場印を手に入れるためには外せない寄り道です。残された力を振り絞って足を運びました。

14:15
ここが「間々田八幡宮入口」です。奈良時代に創建されたという歴史ある神社で、その古さを感じさせる趣があります。参道は樹木が生い茂り、自然と一体になったような雰囲気が漂っています。
敷地面積は約二万坪にも及びます。

ブーちゃん
ブーちゃん

間々田八幡宮
奈良時代の天平年間(729~749年)に創建されたと伝えられているんだブ!平将門討伐や源頼朝の奥州藤原氏討伐の際にも参拝された歴史があるんだブ。そして江戸時代には、日光東照宮へ向かう例幣使もここでお参りしていたんだブよ。5月5日に行われる「間々田のじゃがまいた」祭りは、重要無形民俗文化財に指定されているんだブ!

境内には整備された池や公園も併設されており、訪れる人々が多く見られました。
源頼朝が奥州藤原氏征伐の途中、戦勝祈願を込めて植えた「頼朝手植えの松」がありました。現在は3代目となります。
手水舎には色とりどりのあじさいが浮かんでおり、風情がありましたよ。

本殿に続く階段を登ると、そこに迎えてくれるのは、なんとも言えない表情をした狛犬です。何気なく写真に収めたのですが、やはり参拝者の間でも人気のある狛犬のようですね。親しみを感じます。

こちらが本殿です。静かな雰囲気が漂い、神聖な空気が感じられました。
周囲の自然と調和し、ゆっくりとしたひとときを提供してくれる場所でしたよ。
最初の鳥居から池に向かって下り、その後本殿に向かって登るという少し変わった造りの神社でした。

樹齢250年の「夫婦杉」です。根元が繋がっていることから「夫婦杉」と呼ばれています。
夫婦和合や縁結びの象徴ですね。
甲州街道歩き旅の諏訪大社下社春宮にも、途中で幹が分かれるご神木「結びの杉」を思い出しました。

御宿場印「間々田宿」を手に入れた!

間々田八幡宮の社務所で「間々田宿御宿場印」を手に入れることができます。

場所  :間々田八幡宮 社務所
営業時間:9:00~16:
30
休業日 :年中無休

間々田八幡宮では休憩も兼ねて、すっかり長居をしてしまいました。
日光街道に戻って旅を続けます。

間々田八幡宮で間々田宿御宿場印を手に入れたところで、今回の日光街道5日目3回目の旅はここまでとします。次回は5日目は道中を歩き「小山宿」に入ります。どうぞお楽しみに!

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