こんにちは。ぶ~ちゃんです。
日光街道歩き旅2日目です。
初日は見どころ満載の「江戸日本橋」エリアで足止めを食ってしまいました。
現在の東京の町並みを形成した、江戸城を中心にした城下町には、多くの史跡が残っていました。
今回は「千住宿」を出発して「越谷宿」を目指します。
荒川を渡り、日光街道として栄えた「埼玉六宿」最初の宿場町「草加宿」に進みます。
日光街道の旅 2日目-1
千住宿 つづき
9:15
2日目北千住駅から出発です。
1日目の帰りは疲れ切って納めることのできなかった北千住駅前の写真です。
駅前のデパートはペデストリアンデッキで繋がり、朝から歩行者の往来が多数あります。
今日の天気は晴れの予報。また暑くなりそうです。
駅前の商店街です。9時を過ぎたばかりのため、開店しているお店は少なく、人通りもあまりありませんでした。
1日目も通った「宿場町商店街」です。こちらも開店前のお店が多く、1日目のような人の賑わいはありません。
1日目通ったときには気づきませんでしたが「かどや 槍かけだんご」がありました。
水戸光圀御一行が松に槍を立てかけて休憩したことに、その名前の由来があるようです。
営業時間が17:00までなので、昨日通りかかった時は閉っていたのかもしれませんね。
この日は開店前…営業時間中に立ち寄って、食べ歩きしてみたかったですね。
安養院
1日目の終了地点から少し進んだところにある「安養院」です。
鎌倉時代に北条時頼が創建したとも伝えられています。
千住新橋南詰です。
荒川は荒川放水路といって大正から昭和にかけ人工の川で、江戸時代にこの橋は存在していなかったようです。この大河が人工だったとは驚きですね。
荒川
埼玉県から東京湾に至る173kmの河川で、東京都の水道用水の大部分を供給しているブ。江戸時代から氾濫が多く、1910年の大洪水後に荒川放水路が建設されたんだブ。この放水路は舟運で荒川下流域の安全と発展に貢献しているブ。2024年には放水路の100周年を迎えるんだブ。
橋の上から千住方向を見ると「東京スカイツリー」を見ることができました。
橋を渡り終わったら、土手を西に向かって進みます。
場所は違うかもしれませんが、3年B組金八先生のオープニングでも使われていた荒川の土手。
遮るものが無くて気持ちよいです。
500mほど進んだところで、土手を降り、首都高をくぐって北に向かいます。
土手を降りるとスカイツリーともお別れです。
善立寺
10:00
道を渡った右手に「善立寺」があります。
中央にガラス張りの本堂と、シンメトリーのデザインは現代的です。
善立寺
東京都にある歴史ある寺院の一つなんだブ。徳川家康の江戸入府に伴って内幸町に移転したブ。江戸時代には谷中瑞輪寺や杉並区の宗延寺と並ぶ江戸三大触頭の一つだったんだブ。移転を繰り返して、現在も多くの人々に親しまれているブ。
5分程歩いたところ、左手に「石不動尊」があります。
「耳の不動」とも呼ばれていて、耳を病む人は、竹筒に酒を入れて拝み、その酒を耳につけると治癒が促されると伝えられています。
不動尊の前には「八彦尊道碑」があり、明王院へ通じる参道の道標にもなっています。
そこから更に500mほど歩いた「梅田通り」と「旧日光街道」の分岐に道標がありました。
「右旧日光道中」「左東武鉄道旧線路跡」と刻まれています。
昔はここに線路が通っていたんですね。
東武スカイツリーラインのガードをくぐります。ガード下に梅島駅があります。
「梅島」といえば、ビートたけしが育った街でもあるそうです。
梅島駅から環七通りを渡り1km程歩いたところに「将軍家御成橋・御成道松並木跡」標柱があります。日光街道の西側を流れる千住堀に架かる御成橋が存在しており、その橋を渡ると、葵の紋章が許された国土安穏寺へと続く、松並木の御成道が広がっていました。が、今はその松並木も残っていません。
国土安穏寺
10:45
200m程進んだところに「国土安穏寺」が現れます。
立派な仁王門が見えます。
通用門から境内に入ると、仁王門の裏側を見ることができます。
門の両側には大きな草鞋がが掛かっています。
表からでは良く見えなかったのですが、朱塗りの扉には燦然と輝く徳川家の「葵紋」がありました。
先に進んで行くと、右手に本堂が現れます。
本堂手前は「徳川家光」が植えたとされる「御手植之松」があります。立派ですね。
この松もさることながら庭全体に手が行き届いたお庭でした。この日も多くの庭師がお手入れをしていました。
歴代将軍が立ち寄ったお寺です。将軍の名前が出てきて日光街道旅らしくなってきました。
先ほどの「将軍家御成橋・御成道松並木跡」の標柱まで戻ります。
この日も気温が高く、水分補給をしながら進みました。街道から外れる脇道の散策も一苦労です。
歩き始めて約1時間半しか経っていませんが、妻はすでにお腹が空いてきたようです。
日光街道を進むこと約500m。「島根鷲神社」の案内板がありました。
島根鷲神社
案内板に従って、路地を100m程進んだところに「島根鷲神社」があります。
巨大な大鳥居です。
大鳥居をくぐると、重厚な造りの立派な本殿があります。
社殿の右奥には、八代将軍、徳川吉宗公が座ったと伝えられる「将軍石」がありました。
島根村は徳川将軍家の鷹狩場であり、歴代将軍の参詣があったそうです。
街道に戻り500m程進むと五差路の「増田橋」交差点があります。
交差点脇に「増田橋跡道標」がありました。
昔は千住堀と竹の塚堀が流れており石橋が架かっていたということですが、その痕跡は一切ありません。
交差点を渡り、しばらくまっすぐ進みます。
途中に草加煎餅のお店がありました。草加市に入るのはもう少し先ですが、草加宿が近づいていることを感じますね。
右手に「足立区立渕江小学校」が見えてきたところで、手前の路地を右折します。
しかし、日光街道の旅は寄り道が多い…
保木間氷川神社
11:30
路地に入って100m程進むと「流山道」の説明板があります。
説明板によると「この古道は、流山へと続いている。宝積院と氷川神社は、千葉氏の陣屋のあった場所。東は花畑大鷲神社や成田山に、西は西新井大師へと繋がり、大師道や成田道とも呼ばれ、沿道には歴史的な寺院や神社、旧村地帯が点在している。」とのこと。
説明板の隣に「保木間氷川神社」があります。
鳥居から本殿までまっすぐに参道が延びています。
「足尾銅山鉱毒事件」とも関わりがありました。
ひとけのないこじんまりとした神社でしたが、歴史を持った神社でした。
保木野氷川神社
天神社と呼ばれてたけど、明治5年に伊興氷川神社から分かれて、保木間氷川神社って名前になったブ。
「足尾銅山鉱毒事件」では、田中正造がでここで被害住民に演説したんだブ。解決に尽力することを誓って、被害住民を無事に帰郷させたんだブ。
街道に戻り、更に1km程歩いたところにある「法華寺」です。
南千住にあった「回向院」とともに小塚原刑場の刑死者の菩提を弔う寺であり、移転を繰り返してこの地に至ったそうです。
その後、国道4号線の高架をくぐります。
高架をくぐった後の交差点脇に「水神宮」があります。
小宮某という元北面の武士がこの地に住んでいました。釣りをしている際に出て来た蛇を殺したものの毒に侵され亡くなったことから、村民がこの蛇を祀ったといいます。
交差点を左折し「毛長川」を渡ると「埼玉県草加市」に入ります。
お腹も減ってきたので、このあたりでお昼休憩を取ります。
長かった東京ともここでお別れです。埼玉県に入ったところで、2日目の1回目はここまでとします。暑さと脇道の見どころにより、この日もペースが遅くなりました。
次回は埼玉六宿最初の宿場町「草加宿」に入ります。お楽しみに。
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