こんにちは。ぶ~ちゃんです。
日光街道歩き旅8日目2回目です。
前回は「高谷林の一里塚」までを歩きました。
8日目2回目となる今回は「徳次郎宿」を経て「大沢宿」への道中を歩きます。
今回訪れる徳次郎宿は、上・中・下の3つの宿場町があり、期間ごとに交代で役割を担う合宿制だったようです。甲州街道では合宿はよく見られますが、日光街道で合宿があるのは珍しいですね。
しばらく続く長い宿場町を進むごとに、景色は徐々に自然豊かになっていきます。
それでは、8日目2回目の日光街道歩き旅の続きです。
日光街道の旅 8日目-2
徳次郎宿への道中
第六号接合井
11:30
高谷林の一里塚を通り過ぎて東北自動車道をくぐると、右手に「第六接合井」が見えてきます。
レンガ造りの上屋は、その歴史的価値から登録有形文化財に指定されています。
第六号接合井
日光市から宇都宮市へ水を送る水道管の水圧を調整するために作られた6つの接合井のうち、当時の姿で残っているのはこの第六号接合井だけなんだブ。歴史を感じる貴重な施設なんだブ!
日本橋から18番目の宿場町「徳次郎宿」
10分ほど歩いたところで、富屋地区市民センターのフェンスに掛けられた横断幕を見つけました。横断幕には「令和3年、66年ぶりに徳次郎町の読みが『とくじろう』から『とくじら』に復活した」と書かれています。
地名の読みは「とくじら」。これは、日光の久次良(くじら)氏の領地の外側だったことから「外久次良(とくじら)」と呼ばれ、それが転じて「徳次郎」になったと言われています。宇都宮市に合併した際には「とくじろう」と読まれるようになりましたが、2021年に本来の読み「とくじら」に改称されたそうです。
そして、この辺りが、徳次郎宿の南口だったようです。
徳次郎宿
本陣が3軒、脇本陣が4軒、旅籠が72軒もある宿場町だったんだブ!宿場は「上徳次郎」「中徳次郎」「下徳次郎」に分かれていて、荷物や人を引き継ぐ継立を上中下旬で交代制で担当していたんだブ。
徳次郎宿の集落に入ります。
私塾 明王院
富屋地区市民センターからさらに300mほど歩くと、左手に私塾「明王院」の跡が見えてきます。この寺子屋は、修験者の外鯨要人(とくじらかなんど)が開いたもので、江戸時代末期から大正時代まで続きました。
「学問がなければ立派な人間にはなれない」という強い信念を持つ外鯨要人が、多くの子どもたちに教育を提供した場所だったようです。何歳になっても学びは必要ですね。
下徳次郎宿 仮本陣跡
そのはす向かいに「下徳次郎宿 仮本陣跡」があります。
案内板によるとここは、問屋場兼仮本陣跡だったようです。
徳次郎城跡
その先の道を右折すると、進む先は森の中へと続いています。
ここには、新田徳次郎が築いたとされる平城があります。戦国時代の城郭構造がよく保存されているそうです。
「徳次郎」という地名の由来には新田徳次郎がこの地に徳次郎城を築いたことが、地名の由来として有力だとされています。
宇都宮餃子 さつき 徳次郎本店
12:00
森の手前にある道を北に少し進むと、立派な造りの古民家が見えてきます。ここは「宇都宮餃子 さつき 徳次郎本店」です。
こんなところで、人気の宇都宮餃子が食べられるんです。ということで、この日のランチはここでいただきます。
店内には、団体でも利用できる広々とした和室も完備されているようで、ゆったりとした空間で食事を楽しめます。のどかな景色を眺めながら、ゆったりと人気の餃子が食べられる。贅沢なひとときでした。
お腹もしっかり満たされたところで、少し休みたい気持ちもありますが、秋の陽はあっという間に落ちてしまいます。できるだけ明るいうちに先を進んでおきたいので、気持ちを切り替えて、再び歩き始めます。
中徳次郎宿跡
12:45
徳次郎交差点より少し歩いた右手に「中徳次郎宿」案内板がありました。
3宿の中では中程に位置し、宿の長さは310m、家数は50軒ほどであった。宿内には問屋場兼本陣1軒、脇本陣1軒、高札場1カ所が設けられていた。旅籠や商いで生計を立てる家が多かったと記載されていました。
見世蔵(小日野屋)
更に200m程歩いた左手に、店舗・住居を兼ねる小日野屋の見世蔵があります。
明治初期に創業されたこの商家は、肥料や穀物などを取り扱い、2008年まで営業していましたそうです。
その先、しばらく歩いても、往時を感じさせるものは特に見当たりません。自然豊かな景色が広がりますが、隣の道路では車が絶え間なく行き交います。
智賀都(ちかつ)神社
右手に二本の大きなケヤキがそびえ立つ智賀都(ちかつ)神社が現れます。
徳次郎のの鎮守で、社殿は1868年(明治21年)に改築されたものです。
毎年8月1日例祭が行われ、彫刻屋台6台が3年ごとに繰り出されるそうです。
鳥居の両脇のケヤキの大木は「長寿の夫婦ケヤキ」とよばれ、樹齢700年で県の天然記念物に指定されています。2本並んでの長生きしている樹木は珍しいですね。
私たちも、Jこの長寿にあやかって長生きしたいものです。
徳次郎六本杉
智賀都神社を通り過ぎたところに中央分離帯があります。
この中央分離帯に6本の杉が復元されていたそうですが、残念ながら今は全て枯れてしまったようです。今でも「六本杉」という名前がカフェやバス停の名前として残っているのみです。
さすがに、車の行き交うこの中央分離帯の幅で大木を育てようとするのは難しいのではないでしょうかね。
往時の町並みは見られません。周りに広がる自然を楽しみながら前進していきます。
上町屋台庫 上徳次郎宿跡
智賀都神社から1.5km程歩いたところに「徳次郎上町屋台庫」があります。
この中に、屋台が納められているようです。智賀都神社の例祭で奉納される彫刻屋台ですね。
ここには「上徳次郎宿跡」の案内板も立っていました。
徳次郎の3宿の中で最も北端に位置しており、最も早くから開けた宿だったそうです。宿の長さは352メートル、家数は約30軒ほど。宿内には、本陣が1軒、脇本陣が2軒設けられていたとの記載がありました。旅籠の数も徳次郎3宿で72軒あったそうです。結構大きな宿場町だったのでしょうね。
江戸日本橋より三十里目「石那田の一里塚」
500mほど進んだ丁字路の右手に、「石那田の一里塚」が現れます。塚の手前には案内板もありましたが、残念ながら文字が消えかかっていて、内容を読むことはできませんでした。塚自体は雑草に覆われており、頂上には木ではなく石柱が立てられています。
その後、車道より一段高い場所の歩道を進んで行きます。
石那田堰案内
13:30
石那田一里塚から10分ほど歩くと「二宮尊徳先生遺跡 石那田堰100米」と書かれた案内板が立っています。ここからさらに進むと、二宮尊徳の指導で築かれた堰の跡や記念碑などがあるようです。
第五号接合井
その先をしばらく歩くと、「第五号接合井」が現れます。こちらは、第六接合井と形が似ていますが、建て替えられたもので、歴史的な価値はあまりないようです。
この先には第一接合井まで街道沿いにあるようですので、コンプリートしたいと思います。
並木道が一旦途切れたところには、猪倉街道入口の交差点があります。街道沿いには、りんごの販売所もありました。単品売りはさすがに無いか…
田川を渡ります。流れは鬼怒川に合流します。
徳次郎宿を抜けて、自然が一層深まってきたところで、日光街道8日目の2回目の旅はここまでです。次回は「大沢宿」う道中です。いよいよ杉並木に入ります。どうぞお楽しみに!
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